やる事も見る事もなくて部屋に戻っている途中、突然腕をつかまれた。
「へ?」
 声を上げたのも一瞬。ものすごい力で引きずられて、俺は薄暗い部屋に押し込められていた。
 ……えっと?
「……ハーベスト」
「え?」
「下拵えは終わり」
 ろうそくの炎っぽいのに照らされてるのは、フルーレさんの顔、だった。
「ふ、フルーレさん?」
「ハーベスト。収穫期は逃さない。弱った時が狩りのベスト」
 わけが分からない。
 下拵えが終わった?
 収穫期?
 弱った時が狩りのベスト?
 それって、つまり。
 考えている間に胸を押さえつけられる。強い、痛い痛い。ポンプみたいに肺から息を出させられる。
「けっ、けほっ、フルーレ、さん!?」
 痛みで少しかすむ視界に映ったのは、いつもより輝いた目で。そのどこかで見た事のある光にぞくりとする。背筋が凍るんじゃない、背筋が震える。近いけど遠いものに身体が期待をする。
 違う、そうじゃない、今は期待しちゃいけない。いや、普段も期待しちゃいけないけど。
 フルーレさんは大げさなぐらい大きな包丁をペロリ、と舐めた。
「どこからがいい?」
「どこから、って……」
「どこからでもいい。僕は君を食べよう」
「な――」
「舌は薄く切って焼こう。目はスープと共に煮込もう。頬は他の部分と混ぜてハンバーグにしよう。腸に詰めてウィンナーにしてもいいだろう。心臓は刺身にしよう。足はタレにつけてレンジで焼こう。骨は出汁をとったら焼いて砕いてパンに混ぜよう」
 次々と言われる自分の調理法が、一瞬でも美味しそうだと思ってしまった。
 それぐらいフルーレさんは今まで見た事もない、愉悦に満ちた表情で、欲望と欲情にまみれた視線を俺に向けてきていた。
「骨の欠片も残さず食べよう。遠流 蘇芳。君は僕が扱った中でも最高の食材になるだろう」
 そんな事言われたって、俺は、まだ食べられたくありません。
 「どこから食べられたい?」と囁かれて、俺は懸命に首を横に振っていた。
「……そう。選べないの」
 当たり前です。なくなっていい場所なんて俺には思いつきません。
「なら、どこからなくなっても一緒だよね」
 全然意図伝わってねぇ……!
 包丁の刃が首に当てられる。冷たい感触にようやく身体が恐怖に怯えた。
 ああ、でも。
 ここで終わるのも、ありかも知れない。
 フルーレさんの目に映る対象aは「食材としての遠流 蘇芳」で、俺は「食材としての遠流 蘇芳」で終われる。
 ――ああ、でも。それじゃあ、ダメなんだよな。そんな対象aで終われるほど、俺は、
「蘇芳!」
「――あ――」
 一気に明るくなった視界に、目の前が真っ白になるみたいな錯覚が。えっと、これ何ていう現象だっけ?
「フルーレ、俺がどんな権限を持ってるかは知ってるよな? 知ってるなら、その物騒なのをさっさとしまえ。遠流 蘇芳を食材として扱う事は俺が許さない」
 そんな凛とした声に、首に当てられていた冷たい感触は消えていった。
「……残念」
 ポツリとフルーレさんは呟いて、どっかに行った。……あれ、包丁どうするんだろう……ていうかあっさり……
「はぁ……間に合って良かった……」
「ちょ、重……!」
 ようやく目が慣れたと思ったら、何かのしかかられ……いや、これは抱きしめられてる、のか? 重いけど。
 薺は俺の耳元でため息をついた。
「本当……部屋にいなかったからもしかしてと思ったら、本当にもしかしてなんだもんな。気付いてよかったぁ……」
 安心したような声に俺はやっぱり何も言えない。
 ――あそこで終わってもよかったかもなんて、言ったらおまえは幻滅するかな、薺。
 だから何も言えなくて、「良かった」って繰り返す薺に抱きしめられてたままだった。
inserted by FC2 system